情熱の レーシングチーム 経営者

VOL.323 / 324

組田 龍司 くみた りゅうじ KUMITA Ryuji

B-MAX ENGINEERING株式会社 代表取締役
1967年神奈川県横浜市中区生まれ。23歳で父親の病気を機に家業の屏風ヶ浦工業を引き継ぐ。37歳でレース活動を開始し2010年にレーシングチーム「B-MAX」を設立。わずか7年でゼロから日産GT500のメンテナンスを任されるまでに成長させた。自らもレーサーとして現役で活躍している。

HUMAN TALK Vol.323(エンケイニュース2025年11月号に掲載)
スーパーフォーミュラ・ライツ、スーパーフォーミュラ、SUPER GT…。名だたるステージで活躍するB-Max Racing Team。その立ち上げの裏には、極限状態で会社を立て直した一人の青年のドラマがありました。今回は、B-MAX ENGINEERING代表の組田龍司氏に、家業の再建とレースへの情熱、ふたつの軌跡を語っていただきました。

情熱の レーシングチーム 経営者---[その1]

2005年 ポッカ1,000kmに出場

23歳で家業を 引き継ぐことになった日

 1967年、神奈川県横浜市中区で生まれました。実家は磯子区の屏風ヶ浦という町で、父は小さな製造業を営んでいましたが、最初は工場すらなくて、数人で社内請負のような形で働いていたと聞いています。子ども時代は横浜市内で何度も引っ越しを経験しました。港南、戸塚、瀬谷、旭区と転々とし、小学校も2度転校しています。
 車は物心ついた頃から好きでした。ラジコン、ミニカー、バイク……気づけば何かしらモーターの付いたものを手にしていました。高校は私立の普通科に進学しましたが、卒業後は迷わずいすゞ自動車へ。父の背中を見て育ったこともあり、「ものづくりがしたい」という気持ちが強かったんです。
 配属は板金部門で、ジェミニやピアッツァなど乗用車の製造に携わりました。社内の工業訓練制度を経て、現場の開発業務に就きましたが、5年目のある日、父が病気で倒れ、余命宣告を受けたんです。このままでは事業の継続が難しいと言われ、僕は23歳で父の会社に入ることになりました。「継ぐ」というより、「助けるしかなかった」というのが正直なところです。

18歳の頃に乗っていたZ1100R

「お金がない。支払いができない」

 会社に戻っても、すぐ社長になったわけではありません。当時は上司にあたる人が3人いて、僕はその下で営業や現場作業を覚える立場でした。ですがそこから7年、会社は急激に傾いていきました。売上は3分の1、借金まみれで、従業員に給料を払うこともできない。「このままじゃ会社は潰れる」と思っていた矢先、番頭的な人が突如辞めることになり、29歳の僕が実質的に経営を引き継ぐことになります。
 もう来月の支払いができない。自分の給料なんて1円も出ない。父の形見を車に積んで質屋を回り、目の前の支払いを繋いでいました。当時は、生活費だけ、従業員の半分の金額だけもらって必死で生きていたんです。
 ただ、現場を誰よりも知っていたことが僕の強みでした。営業も事務も、全部経験していたので、「なぜ利益が出ないのか」が見えてきた。逆に言えば「どうすれば利益が出るのか」も見えていたので、それを実直に実現するだけでした。
 一番ありがたかったのは、そんな僕の姿を見て「応援する」と言ってくれた人たちがいたことです。仕入先、親会社、銀行……ある銀行の支店長は「もう貸せない」と言いながらも、自分の裁量で担保を外してくれました。従業員の中には「家の権利書を使ってくれ」と差し出してくれた人もいた。人に救われたから、今の自分があります。

「365日働いた」 ──10年かけて掴んだ“正常経営”

 事業再建のキーワードは「断らない」でした。どんな小さな仕事でも絶対に受ける。たとえ理不尽な納期でも、どんな難題でも引き受けた。そうやって実績と信頼を一つずつ積み重ねていったんです。大晦日も元旦も関係ない。3年間、365日休まず働きました。
 資金繰りを回すために、協力会社の方には頭を下げて支払サイトを変更してもらったり、身内や取引先からお金を借りたり。節約できるところは徹底して切り詰め、営業車も廃車寸前の中古車を譲ってもらって使っていました。
 ようやく「会社が黒字化した」と感じたのは引き継ぎから3年目。借金を返しきって、財務が“健全”と言える状態になったのは15年後でした。「この道で間違ってなかった」という実感が持てたのは、私が40代に入ってからです。
 でも、人生はそこで終わりじゃなかった。むしろここからが新しい“スタート”だったんです。もう一度、「自分の夢」に挑戦する時期がやってきました。きっかけはあのロータリーの神様、RE雨宮の雨宮さんから「男なんだからやりたいことをやれよ」と言われたことでした。どうせやるなら趣味の延長じゃなくて、ちゃんと事業化してやろうじゃないかと思ったんです。

2004年 レースデビューはこのポルシェから

300万円で譲ってもらった911SCを改造して走行会に参加していた

情熱の レーシングチーム 経営者---[その2]
HUMAN TALK Vol.324(エンケイニュース2025年12月号に掲載)
父親から急遽引き継いだ会社があれよあれよという間に瀕死の状態まで傾き、倒産を覚悟したところから見事立て直すことに成功したB-MAX RACING代表 組田氏。そこから「自分の夢」に挑戦する日々が始まりました。会社の経営とレースチームの運営という2足の草鞋を履く人生。2回目はそのレース人生にフォーカスを当てて語っていただきます。

メーカーと組まないと 事業として成立しない

 ちゃんとした事業としてレースを始めようと考えた時、最初はホビードライバーとしてフレッシュマンレースに参加し、レースの仕組みやビジネスポイントがどこにあるのかを学習しようと思いました。あるとき、GTをやっていたチームがレースを辞めるという話が舞い込み、そこに出資して設備を買い取り、自分たちでやろうという話になりました。
 その時にはビジネスポイントについては掴んでいましたが、わかればわかるほど「レースって儲からないのでは」と感じていました。ただ、プロのレーシングチームはちゃんと収益を上げていますから、そこまで辿り着くことができれば事業になると気付きました。ガレージ運営でやっていては所詮趣味の延長線上にあり、ビジネス的な成功には至れません。ちゃんとプロとしてやれるチームにするためには、メーカーと組まなければならないというビジョンを持ちました。
 2004年がフレッシュマンでのレースデビューで2008年までポルシェで走りました。リーマンショックが来てポルシェのレースはやめ、一番安上がりなレースは何かと検討したらFJが一番お金がかからないということで、2009年にスーパーFJに出場しました。初めてフォーミュラカーに乗って、その運動性能の高さとコストパフォーマンスの良さに感激しましたね。2010年にはB-MAX ENGNEERINGという会社を立ち上げ、スーパーFJの2台体制で本格的にレースチームとして始めました。

「NDDP RACING with B-MAX」として4年間 GT500に参戦

2010年 工場の片隅から始まった

F3初挑戦で全日本タイトルを奪取

 スーパーFJを3年続けた頃、当時FCJで走っていた日産の育成ドライバーの高星選手に「うちのマシンに乗らないか」と声をかけました。もちろん日産にも許可を取りに行くと「B-MAXってどこ?」という反応。でも「乗せてくれるならいいよ」と快諾を得て「結果を出せば注目されるはずだ」という目論見どおり、レースで3勝を挙げると日産からも「あのチーム(B-MAX)いいよね」という評価がいただけたんです。
 その後、関口雄飛選手でF4を走ることとなり、彼もまた活躍しました。F3が併催だった土砂降りの富士のレースでのこと。当時のトムス関谷監督が関口選手の走りを見て驚かれ、レース後に「車をただで貸してあげるからB-MAXでF3に出てくれないか」と言われました。F3はコストも嵩むので最初は断りましたが、ただならとお借りすることに。当時のスタッフ3名と私で途中からF3に参戦することとなり、初出場のレースでいきなり優勝することができたんです。周りからは「勝つまで10年かかる」と言われていたのに、1年目の1戦目で勝ってしまいました。結果的にシーズンで4レース落としていたにも関わらず、最終戦で逆転チャンピオンを取りました。なんと1年目で全日本タイトルを取ったのです。
 そこから日産より「うちの育成プログラムをやってくれないか」とお声がけをいただき、NDDPという日産の育成プログラムを任されることになりました。さらに「GT300も一緒にやってくれ」という話になり、2014年からGT300も始めることになったのです。

2012年 マカオGP出場、ベストリザルトの14位

絶対に妥協しない、諦めない心

 GT300ではタイトルは取れませんでしたが、毎年何勝かできて、いつも上位でチャンピオン争いができました。その結果2017年に「300ができるなら500もできるだろう」と、GT500のメンテナンスを任されることに。2017年から2020年までの4年間、NISMOの3号車を走らせるチームへとなりました。チームを立ち上げて7年で、ゼロから始めてGT500を任されるまでになったというのは、私の中では誇りです。
 よく「何が秘訣なのか」と聞かれますが、一つは「絶対に妥協しない姿勢」もう一つは「諦めない心」です。現場やレースの場面では「ここが限界だ」「もうダメだ」といった言葉を絶対に言わないこと。最後の一瞬まで「まだわからない」と言い続けることが大事だと思っています。タイトル戦などでしびれる戦いが続く時、連敗して「もうダメかな」と思った時でも「まだ可能性がある」と言い、絶対に「諦めた」とは言いません。それはビジネスでも同じです。状況が悪かったり上手くいかなかったりする時、下向きになりがちですが「何か方法があるはずだ」と諦めない姿勢、その結果が事業再生に繋がったのだと思います。事業もレースも全部繋がっています。会社の運営もレースも結果が全てというところは全く同じです。事業の方では後継者を作って会社を渡すのが自分の最後の仕事と考えています。レースの方ではスーパーフォーミュラでの日本一と、育成したドライバーがF1やインディに羽ばたいてくれること、それが今後の目標ですね。

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